名倉松窓は、1822(文政5)年生まれの、幕末から明治時代の儒者で官吏である。
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遠江(現在の静岡県)に、浜松藩士の子として生まれる。後に、佐藤一斎らに学び、弘化2年には藩校「克明館」の教授となった。
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維新後は外務大録などを勤めた。明治34年1月27日に80歳で死去した。
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本姓は野田、名は信敦、字(あぎな)は先之とされている。通称は重次郎。別号に予何人(あなと)がある。
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主な著作に「航海日録」「遠江紀行」などがある。
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名倉は1862(文久2)年に千歳丸で上海に行った。この上海は名倉の初の海外経験となる。そもそも名倉の上海訪問は、浜松藩江戸留守居役その他の役職者が幕府の官船派遣計画を知り、しかるべき人材を派遣すべく彼を指名したと考えられる。浜松藩主である井上河内守は、老中を勤めたこともあり、幕府の種々の情報に明るく、藩の意向として名倉を派遣したと考えるのが普通といえよう。
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上海で名倉は、「支那聞見録」「海外日録」「滬城筆話」「滬城筆話拾遺」という4つの記録を残している。このうち「支那聞見録」「海外日録」は、東洋文庫に中山久四郎旧蔵本がある。
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「滬城筆話」と「旭城筆話拾遺」は、上海での筆談の記録となっている。当時、日本人が中国人とコミュニケーションする際には、双方が知識人であれば、「筆談」が普通だった。よって、筆記した控えは重要な記録ともなる。
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日記は長崎から上海までの5日間の航海の記録ではじまる。港から眺めた上海の繁栄におどろいたが、上陸してみると、中国の群衆と市街の狭さ汚さに驚くという流れになっている。